Polarisの創作部屋

𝒫ℴ𝓁𝒶𝓇𝒾𝓈の創作詩

「絵画展」

大阪港駅の改札口。僕は軽く手を上げ、紀子は真っ直ぐこちらへ駆け寄る。

 


僕は塗装会社に勤めていて、紀子は大学生だった。お互い二十歳で、共通の知人の紹介で飲み会を開き、そこで意気投合し交際を始めた。

 


その日は日曜日で、前から紀子が行きたがっていた絵画展に行くことにした。

 


僕は紀子と話せば話すほど、彼女に夢中になった。

 


ある時は、紀子が大好きな祖父母の話題になった。

 


「私信じられなかった。祖父母が病室で聞いているのかもしれないのに、親族で遺産の分配の話を廊下でしていたのよ。私は絶対許さない」

 


またある時は、大学のボランティアで、障害をもつ子供たちとキャンプに出かけた時の話を聴いた。

 


「私の不注意で抱っこしていた子供を落っことして怪我をさせたのよ。私にはそういう血が流れているの。誰かを傷つけ損ねてしまう血が」

 


また紀子の兄は困難な状況にあった。

 


「兄は大学の駐車場で徐行していたの。人がいないと思って走り出したら人を轢いてしまって。殺してしまったの。今も裁判で争ってる」

 


その日、紀子は青い格子柄のチュニックにデニムパンツ。ベージュのパンプスを履き、ミディアムの黒髪は毛先が少し跳ねている。淡いスカイブルーのショルダーバッグ。ピアスの湾曲した金属の先に小さな真珠が控えめに輝いていた。

 


外は小雨が降っている。傘を刺し手を繋ぎ、北へ歩く。道路沿いの家の軒先のプランター。緑が濡れて光っている。

 


僕は用心深くちらっと紀子の横顔を覗き込む。いつもと同じ紀子の横顔だ。正面を向き、同じ歩幅で歩く。視界から紀子が消えた瞬間、僕の記憶の中に残された紀子の横顔は音もなく消えていく。

 


点と点は面になり。面と面は立体となり。立体は光と影を帯びて奥行きを与える。それは記憶の中に映像として残されるべきものだ。

 


紀子は僕の記憶に残ることを拒否している。僕が紀子を抱きしめたとき、いつも感じるのは、ここにいるけど、ここにいないという、なんともやりきれない感覚だ。

 


小屋の中で少女は音もなく泣いている。どこでもないどこか。ここではないどこか。誰にも見つからない、誰にも傷つけられない。だけど、どこにも救済のないそんなどこか。

 


僕は手を繋ぎ歩きながらそんな世界を想像していた。目の前に観覧車が見える。左へ曲がり、海遊館を過ぎて、「大阪文化館・天保山」(旧サントリーミュージアム)に到着する。

 


看板に「シュールレアリスムの絵画展」と書かれている。列に並んでチケットを購入し館内へ入る。

 


紀子はルネ・マグリットの、顔を林檎で隠された絵画をじっと眺めていた。僕もその珍妙な絵画に惹き付けられた。

 


サルバドール・ダリの歪んだ時計の絵画や、マルク・シャガールの牧歌的な独特の絵画に魅入っていた。

 


館内は静寂で、日常の世界から切り離された空間に迷い込んだみたいに思えた。

 


僕たちは休憩室のソファーに腰を下ろした。一面、ガラス張りの向こうに大阪湾が一望できる。夕陽は金色に世界を染める。海鳥が弧を描く。波は金色に銀色に輝く。船がゆっくり沖へ向かう。光が今日という日の最後に躍り、闇が濃さを増してゆく。

 


僕の隣に座っているはずの紀子は消えていた。それは当然のことのように思えた。随分前から彼女はここから消えたがっていたのだ。君の中にある虚無は、僕の中にある虚無を呼び覚まし、共鳴させた。人生に意味なんてないのかもしれない、だけど、僕はここで生きていくよ。だって僕は心から君を愛していたから。

 

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